武士の婚姻は [武士・婚姻・庶民]

将軍・藩主の許可を必要とし、上級武家では血筋の継承を理由に妻のほかに複数の妾の存在が認められた。

妾は身分上家族ではなく奉公人とされたが、妻と同様の貞操を求められた。

江戸中期には、商人・地主などにも妾をもつ者が現れ、しだいに下層にまでその風習は拡がった。

江戸時代には武士階級でも離婚・再婚がかなり多かった。

庶民の場合は離婚に際して離縁状、いわゆる三行り半を夫側が出すことが慣例であった。

これは、かならずしも夫が専権的に離婚の権利をもつことを意味するのではなく、妻の再婚の自由を保障するもので、実質的には協議離婚が多かったとする説もある。

また、離婚を求める女性のためには鎌倉の東慶寺など縁切寺、駆込寺が存在した。

江戸幕府が開かれると同時に、公娼制が確立された。

吉原に公認の遊廓が設けられ、これに準じて京・大坂・長崎にも遊廓が置かれた。

幕府はそこから冥加金を上納させ、これ以外は私娼として取り締まった。

また、五街道の宿駅の旅籠には飯盛女が置かれた。

商品経済の発展した享保期以降、遊女や私娼は増加の一途をたどった。

近世初期には、一部の上層農民を除いて一般には直系親族を中心とした小農経営が成立していた。

そこでは「男は作をかせぎ、女房は苧機をかせぎ夕なべをする」ことが生活のあるべき姿であった。

女が男と同様に農作業に従事することはなかった。

近世中期以降になると、広汎な農作業や農間稼ぎとしての糸取り、機織りに女性が働くことになった。

また、この時期には零細農家の女性は奉公人や日雇いとして家の外に出て働くようになった。

幕末になると各地に起こった綿織物・絹織物の家内工業に雇われる者も現れた。

しかし女性の賃金は男性の約3分の1にすぎなかった。
update:2010年02月23日